長生治療院 院長のひとり言。

2016年06月

精神力

 これによれば、だれでも、自分の中には、感情よりも、理性よりも、もっと優れた尊い、いわば霊性​といったものがあります。つまり、本当の自分、天風先生はこれを「真我」​つまり真実の​と我の​という漢字を書きますが真我があるということです。つまり、人間の生命の中には、心や肉体よりも、一段と超越した、しかも厳として存在する、高度で偉大な「本当の我」というものが潜在的にあることを知ったのです。ただそれを掘り起こしていないだけだというのです。

 ソクラテスが「汝自身を知れ」といったのは、この本当の我を知れということだと、天風先生はある日悟ったようです。この潜在的な本当の我を知り、これを上手に育てるならば、人間は、前に述べた低級な本能主義者や、悩み多き神経質で不安が大好きな理性主義者と異なって、断然、強く、高い精神力、そしてそれにともなって肉体の強い力も持つことができることを知りました。

 本能主義者のように、自分自身は本来どうせつまらないもので、弱く、また動物のような存在で、ただ寝て食って出して生きるだけでよいという考え方で生きていますので、どうせ人生なんてつまらないものだというような低級的な考え方をします。また人生は矛盾だらけで、理屈では解決できず、人生は悩むために生きていると考える理性主義者がいます。このような、自分や人生はどうせつまらないというような考え方では、どうして、それ以上の高く強い精神力を持つことができましょうか。

 この点、あの大哲学者、カントも、生まれつき極めて貧弱で恵まれない病弱な身体であったにもかかわらず、その不屈な偉大な精神力で、古希に達する長寿を達成したうえ、死ぬまで、数多くの大著述をなして、世の中の進歩に貢献したことは、あまねく知られていることですが、その臨終の際、次のように述べたといわれています。「私は、私の心に最大なる感謝を捧げる。私の生来の病弱体を今日まで生かしてくれたのはひとえに私の心の力である」と述べたそうですが、この心の力、つまり、強い精神力というのも、天風先生によれば、カントが心の中に本当の偉大な自分見出し、これを開発し、てたためだと思われます。

​ つまり、まとめますと、次のような天風先生の言葉に集約されると思います。・・・・・・・次回へ

 

 

 

 

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2016/06/30   院長

精神力

 第二の種類の人間は、理性主義的人間です。「心=我」であって、肉体はその付属物と考える人たちです。これは、人間を観察すると、目に見える肉体よりも、目に見えないのほうがはるかに偉大であることに気づた点で、第一の種類の本能主義者よりもかなり進歩している点があります。しかし、単純に自分は肉体という一個の物質的付属物を持つ心と考えますと、いわゆる、精神至上主義に陥り、理屈の力だけで、自分を統率しようとします。その結果、理性が発達するに伴い、理想も高くなる反面、かえって、世の中や自分のさまざまな問題点が見えてくる割には解決法がわからず、人間に対して不平不満、不安、心配、後悔などが次々と訪れ、落ち着きのない不安と煩悶(はんもん)の生活を送ることが多くなります。つまり、理性主義の人間は、理屈中心の頭でっかちで、精神衰弱的な人間となりやすいのです。世の中が嫌になり、暗くニヒルになる、いわば悲観主義者が多いのです。この点、先程の本能主義者は、肉体の要求、つまり、動物的要求をみたすだけでいいですので、それ以上の精神的なものを要求しませんので、かえって、理性主義者のようにはなはだしい悲観主義に陥らずに済みます。

 一方、理性主義者は、すべて理性、理屈の力で、解決しようとするので、いつも、不可解な疑問が生まれ、ますます安心できなくなる人が多いいようです。そして理性と感情の衝突が絶えず起こり、これを統率できないために、いつも精神的煩悶・不安を抱えている気の毒な人となります。それでは、第一の本能主義でも、第二の理性主義でも、力強い充実した人生を送ることができないとすれば、人間には、解決の道がないのでしょうか。天風先生も、この点で長年苦しみ、前述のような長年の人生修行を得て、この第一、第二のタイプの人間としての苦しみを経過し、ついに第三のタイプの人間になることに到達したようです。

 これによれば、だれでも、自分の中には、感情よりも、理性よりももっと優れた尊い、霊性​といっものがあります。・・・・次回へ

 

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2016/06/02   院長
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